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婦人会での証し

今日はこの集まりに招いてくださってありがとうございます。私の名前は瀧浦アミリアといいます。私はアメリカのカンザス州から来ました。日本人の夫と結婚して日本に来てから4年になります。私の夫は牧師をしています。私たちには二人の子供、冠太と賛七がいます。

私はアメリカ人であり、妻であり、母でありますが、私にとってそれらのどれよりも大事なことがあります。それは私がクリスチャンであるということです。今日は神様がどのように私を愛してくださって、クリスチャンにしてくださったかをお分かちしたいと思います。

まず神様が私になさったことは、私をクリスチャンの両親のもとに生まれさせたことでした。このことは、クリスチャンになるために一番重要なことではありませんが、神様の私への深い恵みでありました。私の両親は私に聖書を読み、神様について教えてくれました。また、私の両親は教会の礼拝に忠実に私を連れて行き、神様を礼拝する事の大事さを小さいときから教えてくれました。

教会の人々も良い影響を与えてくれました。小学生のときにエリザベスという女の子と友達になり、彼女の影響で自分で聖書を読み始めました。教会のこどもキャンプも私の信仰が成長することの助けとなりました。これらのことは私が後にイエス・キリストと罪の赦しを知るための基礎となりました。

神様は子ども時代の私に良いものをたくさんお与えになりましたが、様々な葛藤もありました。私はホームスクールで育ったので、友達があまりいませんでした。兄弟は妹一人だけでした。そして、教会でも、エリザベスが12歳のときに引っ越していってしまい、一時期、私と同年代の子がひとりも教会にいないということもありました。当時はあまり意識しませんでしたが、今思うと、孤立感から来る寂しさが私を捕らえ、支配していました。


寂しさはしばしば罪への誘惑となりますが、そのような寂しさの中で、私は中学生のときに隠れた罪と葛藤するようになりました。私は強い罪悪感を感じましたが、誘惑はそれ以上に強く、その罪をやめることはできませんでした。私は自分が決心することで何とかなると初めは思いました。神様に受け入れられる前に自分が変わらなくてはならないと思いました。しかし、いつも私は誘惑に負けました。今思うと、そのようなときでも神様は私の心に働いておられて、自分で自分を変えることに私がどれだけ無力かを私に教えようとされていたのだと思います。


神様が私を愛してくださることの本当の意味を初めて知ったのは、そのような葛藤の中においてでした。中学生のとき、教会で同年代の友達がいなかったのですが、むしろそのおかげで説教や教会のクラスでさらに集中して真剣に聞くことができました。神様は寂しさをも用いて、私が神様のことを探求するようにされました。そのとき、私の教会に臨時の牧師先生が来られていて、新約聖書のヘブル書から説教されていました。ヘブル書はイエス様が何をなさったかが詳しく書かれている書簡です。そのころに、重要な疑問が私の心の中に浮かんできました。「なぜみんなはイエス・キリストのことをそんなに話しているんだろう。イエス様の何がそんなに大事なんだろう。」私はそれまでずーっとイエス様のことを教えられてきていたにもかかわらず、私はその浮かんできた疑問に対して答えを見つけられませんでした。私は聖書を開いてその答えを探し始めました。どのようなときか、またどの聖書の箇所を見つけたかは忘れてしまったのですが、ある時、私が聖書を読んでいるときに、突然分かったのです。誰かが私の全ての罪のために罰を受けなければならないということを。そして、イエス様が私を愛するあまりにご自身の命を私の罪のために捨てられたということを。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。(第二コリント5:21)」私が受けなければならない罰を、イエス様が受けてくださいました。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにあるものが罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」どのような罰も私には残っていないのです。私が一生懸命努力したからではなく、イエス様がすでに私に代わって罰を受けてくださったから、神様は私の全ての罪を赦してくださいました。私が何かをすることによってではなく、イエス様がわたしのした全ての罪のために罰を受けてくださったことによって、神様は私を受け入れてくださっていることを知って、私は驚きました。そして、私は喜びと解放感に満たされました。


それでも悲しいことに私の罪との葛藤はすぐには終わりませんでしたが、イエス様が私のためにしてくださったことを知ってから、私はイエス様にある神様の愛を少しずつ学び始めました。高校生の時期の後半に、地元の短期大学で授業を受けていたのですが、そこで私は何人かの良い友達が与えられ、その友達たちと一緒にたくさんの時間を過ごしました。たくさんのクリスチャンの友達を持つことはすばらしいことでした。ある学期にはその友達たちと時間が合わず、また寂しくなったことがありましたが、そのときはいつでも一緒にいて話を聞いてくださる方、イエス様がいました。昼食のときに、詩篇を読み、神様に自分の考えていることを祈りの中で話すことは私にとって大きな喜びでした。この時期は、神様がいつも私と共にいてくださり、わたしを愛してくださるということを知った、私にとって人生の中でとても特別な時でした。


それから私はペンシルバニア州のジェネバ大学に行きました。私はそこでたくさんの友達が与えられて、とてもすばらしい経験をしました。しかし、それでも寂しいときがありました。つらいことのあった日はよく、キャンパスの中を歩き回ってイエス様と話しました。そしていつも、イエス様とのそのような交わりから本当の平安と活気を受けました。いつもイエス様が私の必要を全て満たしてくれました。私が必要としていたのはイエス様だけでした。そして、私は部屋に戻って、平安のうちに眠ることができました。神様の恵みにより、大学での最後の年に、私は長く葛藤していた隠れた罪からついに解放されました。私は本当にそのことを感謝しています。私は、私の寂しい心の必要を満たそうとしては、いつも罪が私を打ち負かして私の心を暗くしていました。しかし、イエス様は私の必要を全て満たしてくださいました。イエス様は私の全ての渇きを満たしてくださる、生ける水です。


皆さんの渇きを満たすためにいろんなことを用いることができます。たとえば食べることや、買うこと、友達や、あるいは子供や夫まで、そのために使うことができるでしょう。しかしそれらのものはいつまでも続きません。食べ物はなくなるし、物も壊れたり古びたりします。また人についても、あなたが求める全てをとても満たすことなどできません。また、それらのことを自分のために用いること自体正しいことではなくて、様々な自己中心の問題を生みます。しかし、イエス様を持ち、イエス様の愛に満たされることが、皆さんに本当の満足を与えることができます。皆さんがイエス様を見つめるとき、皆さんは本当の喜びが与えられ、与えられたすばらしいものを楽しむことができます。何もなくても、私は私の必要なもの全てをイエス様に持っています。皆さんは自分自身で自分の必要を絶えず満たそうとして、いつも失敗しているというふうに感じることはありませんでしょうか。イエス様を仰いでください。そして共に満たされましょう。

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