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聖書は職業倫理について何と言っているか

2015年4月21日(火)神戸ルーテル神学校 

日本福音主義神学会西部春期研究会議

「聖書は職業倫理について何と言っているか?」 

 瀧浦 滋(日本キリスト改革長老岡本契約教会牧師・神戸神学館代表)


序 ヨハネの福音書5:17(マタイ20:28)

職業倫理についての聖書の教えを把握することは、キリスト者にとっても教会にとっても、現代の生活すべてに関わることとして、抜きがたく重要である。具体的な人生に起こってくるの問題のかずかず、すなわち、教会の牧会やカウンセリングのほとんど全てに、正しい労働についての教えと、職業の倫理についての考え方の聖書的改善が、解決の糸口となることを見ることが出来る。言い替えれば、多くの問題が、労働や職業への考え方のゆがみと関わって発生しているといえる。労働と職業は、キリスト者に限らない、創造の秩序から考えねばならないことである。

一方、職業の倫理を積極的に考える時に、キリスト者としての職業倫理を突き詰める必要が出る。この職業倫理についていえば、内外の識者が、日本は優れた職業倫理によって豊かな国となったという。(例として、フィリッピンのシニョール・ホセさん、南アフリカのキャサリン・プレトリウスさんの新聞記事を参照。)しかし、聖書によると、クリスチャンの職業倫理はこの国のものとは違う。宗教社会学者のマックス・ウェーバーは、儒教的背景の倫理とピューリタンの倫理を対比した。その対比は必ずしも全面的に受け入れられないが、少なくとも、日本の優れていると言われる職業倫理と、プロテスタント・クリスチャンの職業倫理とが違ったものであることを、示唆している。職業倫理であれば何でも良いのではない。キリスト者の職業倫理を深く把握せねばならない。(M.ヴェーバー「儒教とピューリタニズム」みすず書房 宗教社会学論選所収 / 俗人の完成vs神による合理化 神奈川大学山本通氏のこの論文についての論文参照)

この国で働くキリスト者は、現代社会の一員として、またキリスト者として、職業倫理をどう自覚し、変えて行かなければならないのか。散在する聖書倫理の模倣物で満足せず、真のキリスト者の倫理を聖書に見いだすことは、あらゆる問題の解決に関わる、重大な課題であると言えるのではないか。


1.出発点: 職業倫理の主体

職業倫理の主体としてのクリスチャンの生活の聖書的原理(天国への助走)

1)ローマ人への手紙前半の文脈と6:4−12

「キリストとともに葬られた」(ロマ6:4)

「キリストとともに十字架につけられた」(ロマ6:6)

「キリストとともに死んだ」(ロマ6:8)

十字架で、自分のためにイエス・キリストが死んでくださったことは、

良く知っておられるでしょう。

私の、また、あなたの罪の身代わりになって罰を受け死んでくださいました。

それで私たちは贖われ赦されました。

キリストは私たちの代理人となってくださいました。

「代理人」と言うことを良く考えて見ましょう。

「代理人」ということは、本人と同一と見なされ、本人と一体とされて、

本人の代わりになるということです。

つまり、「キリストがあなたのために死んでくださった」ということは、

あなたが十字架の上でキリストに継ぎ合わされ(ロマ6:5)

キリストと一体となり一つとされ、

キリストにおいてあなた自身が罰を受けて死んだのだ、

と言うことだと、ロマ書6章のみ言葉は言っています。

この、十字架の上でキリストと一体とされ

代理人となってくださったキリストとともに

そこにいた私自身が罰を受けて死んだ、ということです。

 

この、「私はキリストとともに死んだ」という事実の自覚が、

聖書が語る私たちクリスチャンの歩みの本当の出発点だと思います。

「私はキリストとともに十字架につけられました。

もはや私が生きているのではなく、

キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)、

また「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」

(ピリピ1:21)というみことばに繋がる、

クリスチャン生活の原理です。

クリスチャンは、十字架の上でキリストとともに死んでしまった者です。

私は、キリストの十字架で滅びました。罪の罰を受けて死にました。

キリストの代理でしたが、それは私が罰を受けて死んだと言うことです。

「私はキリストとともに死んだ」のです。

 

しかし、私は空になった訳ではなく今も生きています

今、生きているように見えるこの私は何なのでしょう。

それは、キリストとともに生き(ローマ6:8)て、

新しい歩みをする、キリストとともにある私です。(ローマ6:4)

だから、もはや私が生きているのではなく、

キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)

ということは、キリストからはなれては、私は死んでいるのです。

今、私の生きている生は、天国への助走だと言うことではないでしょうか。

今は、自分に死に、赦されて、ただ主と共に歩むだけの人生があるのです。

これが、クリスチャンです。ローマ書によるとはっきりそう言えます。

 

古い私は実質的には十字架で死んでいます。

だから、ローマ6章の続きの部分で更に勧められていることは、

肉の器を罪に捧げるのではなくて、恵みのもとにある者として、

生かされた義の器として神に捧げて生きます。(ローマ6:12―14)

すべてのクリスチャンの献身も倫理も、

この「私はあの十字架で死んだ」という事実の上に立っています。

 

自分のこの世での向上のことは、もう終っています。私は死にました。

今はただ、天国の助走を、主のしもべとして主とともに歩んで、

永遠のいのちに至ることです。(ローマ6:22―23)

 

 以上のように、クリスチャンの倫理の場合、倫理の主体がキリスト者であることの違いがその倫理を根本的に左右する。:十字架でキリストと共に死んだ。肉の私は罰を受け既に滅んでいる。今、生きているのは、ただ主と共にあって天国への助走を生きている。 このことである。その上で、信仰者の実際の前提、信仰者の考え方が論じられて、それが様々な場に適応されることになる。(cf. ウエストミンスター信仰告白の基本構造:1−8章信仰の真理、9−13章信仰者とはどんな存在か、14−20章信仰者の考え方、21−24章信仰の告白・証しの場、25−31章教会、32−33章最終的目標)


2)ガラテヤ人への手紙2:20、ピリピ人への手紙1:21

  にまとめられる。

3)マタイの福音書16:24  

カルバンのいわゆる「生活綱要」の骨格となっているこの聖句も、そのようなキリスト者の存在が言い表されている。

4)ローマ人への手紙は、その生き方が聖霊による生き方であることをさらに語って行く。  8:1−2、8―11

5)ローマ人への手紙12:1f.そして、その人生が自分自身を神に献身する礼拝そのものだと告白して、展開する。


 

2.前提:職業倫理の前提

職業倫理の前提としての「労働」についての聖書の教え

(エデンの園からの遺産)

 健全な職業倫理が養われる背景として

  聖書的労働の教理の復権がまず必要である。

創世記1−3章の学びから、

その豊かな実りを生む必要不可欠な真理が私たちの身につく。

アイルランド改革長老教会の見解がその良いまとめまた手引きとなる。

www.rpci.org

また、ジョン・マレーのPrinciples of Conduct「キリスト者の倫理」第四章

労働の定めは、労働の本質の真理と倫理的課題に包括的に触れている。)

1)働くもの自身が満たされる労働(働き)の復権

2)共同体の益のための労働(働き)の復権

3)神のご栄光のための労働(働き)の復権

4)失業の痛み:

Shock, Denial, Frustration, Depression/Pessimism, Despair, Resignation 

これが聖書的労働観による職業倫理の聖書的是正を重要なものとする。

5)労働(働き)と報酬を得ることを区別する知恵


3.職業倫理についての聖書の記述の理解

今キリストに生きる Col. :3、17

ジョン・マレーの見解、Dr. Robert Moreの見解を参照

職業倫理の三つの方向: (ゴードン・コンウエル神学校・職業倫理研究所)

Norm as a man or society, Action to bear fruits, Person to achieve  

 

復習1

1)倫理の主体:

十字架でキリストと共に死んだ。肉の私は罰を受け既に滅んでいる。

今、生きているのは、ただ主と共にあって天国への助走を生きている。

復習2

2)倫理の前提:

職業の必要、職業への神の召し、収入の正しい位置

歴史的な三つのパターン:義・召命・奉仕(モーア)

3)クリスチャン人生で職業以外の神の求めから来る職業の自制

家庭・安息日と礼拝・個人のデボーション・呪いでなく労働自体の幸いの確保

4)愛の十戒を職業に適用して主に仕える

  :カルバンの義の職業倫理

  単純で、真直ぐで、そのままのこと

  神を恐れる・偶像に仕えない・誓いを守る・安息日を守る・

  父母を敬う・殺さない・姦淫しない・

  盗まない・嘘をつかない・むさぼらない)

5)しもべとして主に仕える職業:この世の主人に仕える場を通して

  :ピューリタンの召命としもべの奉仕の職業倫理

 Humble, Honest, Hardworking (Larry McCall)

  テサロニケ人への手紙第一4:11−12、

  落ち着いて生活・自分の手での働き

  テサロニケ人への手紙第二3:6−13

  締まりのない歩み方でなく(マーレー:怠惰etc.

  テモテへの手紙第一6:1−10

  主人の責任・しもべの敬意と服従

  ヘブル人への手紙13:5−6

  召命と賜物への感謝満足(十戒)・主への信頼

  ヤコブの手紙4:1−5:11

  欲望と怒りのコントロール・忍耐

  ペテロの手紙第一2:18−21

  主人への服従

  ペテロの手紙第一3:8−18・ローマ12:17−21

  善を行うこと 


しかし、相手に「職業のないこと」への偏見を当てはめない。

働くことを正しく勧める。



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