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夏の予定

2015年岡本契約教会 夏の予定

1)7月21日から8月18日まで 
        米国短期宣教チーム2名来日(David & Kayla)
  岡本契約教会では:
(1)ナーサリープール  7月28日(火)
           午前11時から3時ごろまで
(2)こども英語  7月22・29日(水)
           午後5時から6時半まで     
(3)BBQ   8月5日(水)
     午後5時から7時まで
2)岡本契約教会行事
(1)KID'S GATE   8月2日(日)礼拝後
(2)こども夏期学校 
   8月3・4日(月・火)午前中   
(3)篠山リトリート
   8月21・22日(金・土)
   アルパインローズ篠山
3)学生会主催行事
(1)こども遠足 8月1日(土)
   しあわせの村
(2)ユース・キャンプ 
   8月10−12日(月−水))
4)日本中会・連合行事
(1)ファミリー・キャンプ 
   8月14−15日(金−土)
   西宮市立山東キャンプ
(2)連合修養会 
   9月21日(月・祝)
   しあわせの村
 

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初夏のご案内:6月から9月の予定

初 夏 の ご 案 内

今週は、岡本契約教会の伝道週間です。
礼拝・婦人会キッチン・KID'S GATEにおいでください。
メール末尾の6月から9月の行事予定もご覧下さい。

5月24日(日)午前9時45分 
   こども礼拝  瀧浦滋牧師
   説教:「ダビデ王のお話」
        午前10時30分 
   礼拝  フランク・スミス(Frank J. Smith)牧師  
     説教:「神との平和」ローマ人への手紙5:1(通訳付)

 <フランク・スミス牧師は、北米改革長老教会の
  アトランタ・プレスビテリアン・フェローシップ牧師で、
  ロスアンゼルス・ティンデル国際大学学長です。>

礼拝後にパン主体の持寄り昼食があります。
どなたでも、ご遠慮なくお残り下さい。
教会は、パンと飲み物を用意いたしますので、
可能な方はパンにのせる付け合わせの一品をお持ち下さい。

5月26日(火)午前11時頃から3時頃まで 
   婦人会キッチン(出入り自由・無料)
   カンサスの家庭料理を一緒に作ります。
   材料はこちらで用意致します。
   聖書のお話とナーサリーがあります。

5月31日(日)午後1時から3時半 
   キッズゲート Kid's Gate (無料) 
     子供が主役の昼食
   聖書物語の映画・お話・ゲーム・おやつ
    
週間集会:婦人会/火11時
    ・ナーサリー/火14時
    ・子供英語/水17時
    ・祈祷会/水19時半

夏(6月から9月)の行事予定:
6月2日(火)午前11時集合 
  ナーサリー遠足 王子動物園
6月23日(火)午後6:30 瀧浦祈平牧師
  29日(月)午後3:00 パトリシア・ボイル宣教師
  聖書的カウンセリングセミナー(三宮・神戸神学館)
6月28日(日)慈善献金日(礼拝献金)
  ネパール震災救援のため、主に捧げます。
7月21日から8月18日まで 
米国青年短期宣教チームを迎えての集会
 7月22・29日・8月5日(水)午後5時
  夏期こども英語プログラム(5日は庭でBBQ)
 7月28日(火)午前11時 
  夏のナーサリー(庭でプール)
 7月31日(金)連合こども遠足(学生会主催) 
 8月2日(日・礼拝後)夏のKID'S GATE
 8月3・4日(月火am)こども夏期学校
 8月6から8日(木から土)学生会ユースキャンプ
8月14・15日(金土)改革長老ファミリー修養会
8月28・29日(金・土)
  岡本契約教会・篠山リトリート
9月15日(火)午前11時
  母親伝道会:聖書の子育ての知恵
9月21日(月・祝)
  改革長老教会連合修養会(しあわせの村)
9月27日(日)午後2:30
  秋の墓地記念礼拝(舞子墓園)

礼拝・子供礼拝・祈祷会・婦人会へのおいでをお待ちします。
あなたとご一家のために、いつも祈ります。

日本キリスト改革長老・岡本契約教会
     0784525310
牧師連絡:07050448251 瀧浦滋牧師
     09037195741 瀧浦祈平牧師

「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、
  私たちの主イエス・キリストによって、
 神との平和を持っています。」
                新約聖書・ローマ5章1節

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聖書は職業倫理について何と言っているか

2015年4月21日(火)神戸ルーテル神学校 

日本福音主義神学会西部春期研究会議

「聖書は職業倫理について何と言っているか?」 

 瀧浦 滋(日本キリスト改革長老岡本契約教会牧師・神戸神学館代表)


序 ヨハネの福音書5:17(マタイ20:28)

職業倫理についての聖書の教えを把握することは、キリスト者にとっても教会にとっても、現代の生活すべてに関わることとして、抜きがたく重要である。具体的な人生に起こってくるの問題のかずかず、すなわち、教会の牧会やカウンセリングのほとんど全てに、正しい労働についての教えと、職業の倫理についての考え方の聖書的改善が、解決の糸口となることを見ることが出来る。言い替えれば、多くの問題が、労働や職業への考え方のゆがみと関わって発生しているといえる。労働と職業は、キリスト者に限らない、創造の秩序から考えねばならないことである。

一方、職業の倫理を積極的に考える時に、キリスト者としての職業倫理を突き詰める必要が出る。この職業倫理についていえば、内外の識者が、日本は優れた職業倫理によって豊かな国となったという。(例として、フィリッピンのシニョール・ホセさん、南アフリカのキャサリン・プレトリウスさんの新聞記事を参照。)しかし、聖書によると、クリスチャンの職業倫理はこの国のものとは違う。宗教社会学者のマックス・ウェーバーは、儒教的背景の倫理とピューリタンの倫理を対比した。その対比は必ずしも全面的に受け入れられないが、少なくとも、日本の優れていると言われる職業倫理と、プロテスタント・クリスチャンの職業倫理とが違ったものであることを、示唆している。職業倫理であれば何でも良いのではない。キリスト者の職業倫理を深く把握せねばならない。(M.ヴェーバー「儒教とピューリタニズム」みすず書房 宗教社会学論選所収 / 俗人の完成vs神による合理化 神奈川大学山本通氏のこの論文についての論文参照)

この国で働くキリスト者は、現代社会の一員として、またキリスト者として、職業倫理をどう自覚し、変えて行かなければならないのか。散在する聖書倫理の模倣物で満足せず、真のキリスト者の倫理を聖書に見いだすことは、あらゆる問題の解決に関わる、重大な課題であると言えるのではないか。


1.出発点: 職業倫理の主体

職業倫理の主体としてのクリスチャンの生活の聖書的原理(天国への助走)

1)ローマ人への手紙前半の文脈と6:4−12

「キリストとともに葬られた」(ロマ6:4)

「キリストとともに十字架につけられた」(ロマ6:6)

「キリストとともに死んだ」(ロマ6:8)

十字架で、自分のためにイエス・キリストが死んでくださったことは、

良く知っておられるでしょう。

私の、また、あなたの罪の身代わりになって罰を受け死んでくださいました。

それで私たちは贖われ赦されました。

キリストは私たちの代理人となってくださいました。

「代理人」と言うことを良く考えて見ましょう。

「代理人」ということは、本人と同一と見なされ、本人と一体とされて、

本人の代わりになるということです。

つまり、「キリストがあなたのために死んでくださった」ということは、

あなたが十字架の上でキリストに継ぎ合わされ(ロマ6:5)

キリストと一体となり一つとされ、

キリストにおいてあなた自身が罰を受けて死んだのだ、

と言うことだと、ロマ書6章のみ言葉は言っています。

この、十字架の上でキリストと一体とされ

代理人となってくださったキリストとともに

そこにいた私自身が罰を受けて死んだ、ということです。

 

この、「私はキリストとともに死んだ」という事実の自覚が、

聖書が語る私たちクリスチャンの歩みの本当の出発点だと思います。

「私はキリストとともに十字架につけられました。

もはや私が生きているのではなく、

キリストが私のうちに生きておられる」(ガラテヤ2:20)、

また「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です」

(ピリピ1:21)というみことばに繋がる、

クリスチャン生活の原理です。

クリスチャンは、十字架の上でキリストとともに死んでしまった者です。

私は、キリストの十字架で滅びました。罪の罰を受けて死にました。

キリストの代理でしたが、それは私が罰を受けて死んだと言うことです。

「私はキリストとともに死んだ」のです。

 

しかし、私は空になった訳ではなく今も生きています

今、生きているように見えるこの私は何なのでしょう。

それは、キリストとともに生き(ローマ6:8)て、

新しい歩みをする、キリストとともにある私です。(ローマ6:4)

だから、もはや私が生きているのではなく、

キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)

ということは、キリストからはなれては、私は死んでいるのです。

今、私の生きている生は、天国への助走だと言うことではないでしょうか。

今は、自分に死に、赦されて、ただ主と共に歩むだけの人生があるのです。

これが、クリスチャンです。ローマ書によるとはっきりそう言えます。

 

古い私は実質的には十字架で死んでいます。

だから、ローマ6章の続きの部分で更に勧められていることは、

肉の器を罪に捧げるのではなくて、恵みのもとにある者として、

生かされた義の器として神に捧げて生きます。(ローマ6:12―14)

すべてのクリスチャンの献身も倫理も、

この「私はあの十字架で死んだ」という事実の上に立っています。

 

自分のこの世での向上のことは、もう終っています。私は死にました。

今はただ、天国の助走を、主のしもべとして主とともに歩んで、

永遠のいのちに至ることです。(ローマ6:22―23)

 

 以上のように、クリスチャンの倫理の場合、倫理の主体がキリスト者であることの違いがその倫理を根本的に左右する。:十字架でキリストと共に死んだ。肉の私は罰を受け既に滅んでいる。今、生きているのは、ただ主と共にあって天国への助走を生きている。 このことである。その上で、信仰者の実際の前提、信仰者の考え方が論じられて、それが様々な場に適応されることになる。(cf. ウエストミンスター信仰告白の基本構造:1−8章信仰の真理、9−13章信仰者とはどんな存在か、14−20章信仰者の考え方、21−24章信仰の告白・証しの場、25−31章教会、32−33章最終的目標)


2)ガラテヤ人への手紙2:20、ピリピ人への手紙1:21

  にまとめられる。

3)マタイの福音書16:24  

カルバンのいわゆる「生活綱要」の骨格となっているこの聖句も、そのようなキリスト者の存在が言い表されている。

4)ローマ人への手紙は、その生き方が聖霊による生き方であることをさらに語って行く。  8:1−2、8―11

5)ローマ人への手紙12:1f.そして、その人生が自分自身を神に献身する礼拝そのものだと告白して、展開する。


 

2.前提:職業倫理の前提

職業倫理の前提としての「労働」についての聖書の教え

(エデンの園からの遺産)

 健全な職業倫理が養われる背景として

  聖書的労働の教理の復権がまず必要である。

創世記1−3章の学びから、

その豊かな実りを生む必要不可欠な真理が私たちの身につく。

アイルランド改革長老教会の見解がその良いまとめまた手引きとなる。

www.rpci.org

また、ジョン・マレーのPrinciples of Conduct「キリスト者の倫理」第四章

労働の定めは、労働の本質の真理と倫理的課題に包括的に触れている。)

1)働くもの自身が満たされる労働(働き)の復権

2)共同体の益のための労働(働き)の復権

3)神のご栄光のための労働(働き)の復権

4)失業の痛み:

Shock, Denial, Frustration, Depression/Pessimism, Despair, Resignation 

これが聖書的労働観による職業倫理の聖書的是正を重要なものとする。

5)労働(働き)と報酬を得ることを区別する知恵


3.職業倫理についての聖書の記述の理解

今キリストに生きる Col. :3、17

ジョン・マレーの見解、Dr. Robert Moreの見解を参照

職業倫理の三つの方向: (ゴードン・コンウエル神学校・職業倫理研究所)

Norm as a man or society, Action to bear fruits, Person to achieve  

 

復習1

1)倫理の主体:

十字架でキリストと共に死んだ。肉の私は罰を受け既に滅んでいる。

今、生きているのは、ただ主と共にあって天国への助走を生きている。

復習2

2)倫理の前提:

職業の必要、職業への神の召し、収入の正しい位置

歴史的な三つのパターン:義・召命・奉仕(モーア)

3)クリスチャン人生で職業以外の神の求めから来る職業の自制

家庭・安息日と礼拝・個人のデボーション・呪いでなく労働自体の幸いの確保

4)愛の十戒を職業に適用して主に仕える

  :カルバンの義の職業倫理

  単純で、真直ぐで、そのままのこと

  神を恐れる・偶像に仕えない・誓いを守る・安息日を守る・

  父母を敬う・殺さない・姦淫しない・

  盗まない・嘘をつかない・むさぼらない)

5)しもべとして主に仕える職業:この世の主人に仕える場を通して

  :ピューリタンの召命としもべの奉仕の職業倫理

 Humble, Honest, Hardworking (Larry McCall)

  テサロニケ人への手紙第一4:11−12、

  落ち着いて生活・自分の手での働き

  テサロニケ人への手紙第二3:6−13

  締まりのない歩み方でなく(マーレー:怠惰etc.

  テモテへの手紙第一6:1−10

  主人の責任・しもべの敬意と服従

  ヘブル人への手紙13:5−6

  召命と賜物への感謝満足(十戒)・主への信頼

  ヤコブの手紙4:1−5:11

  欲望と怒りのコントロール・忍耐

  ペテロの手紙第一2:18−21

  主人への服従

  ペテロの手紙第一3:8−18・ローマ12:17−21

  善を行うこと 


しかし、相手に「職業のないこと」への偏見を当てはめない。

働くことを正しく勧める。



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「日本の国家とキリストの王権」

日本伝道会議神戸アナロギア(ALG)社会委員会・2015春の研究会

日時)2015年4月28日(火)午後3時−5時 三宮:神戸神学館

分野)神戸社会委員会・日本の国家観分野:信仰の自由・人権等

発表)「日本と聖書のキリスト王権:サイミントンとJ.ヴォス」

                                                                       瀧浦 滋

    詩篇97:1a、22:28a、ゼカリヤ14:9a

  マタイ28:18b、黙示録11:15b

1.聖書に従う国の幻

2.日本の政治の中心課題(天皇制と国家神道)

  それを聖書から考える道の軸としてのキリスト王権

3.聖書のキリスト王権の教え

1)ウイリアム・サイミントンの「メサイア・ザ・プリンス」

2)その示す、聖書のキリスト王権

3)聖書の三つの王権の教理の中でのキリスト王権

(1)創造者なる神としての王権

(2)神が仲保者に委ねられた王権

(3)救い主(キリスト)の職務としての聖霊による教会への王権

4.キリスト王権のもとで見る天皇制

1)キリスト王権のもとの王への服従

2)天皇への不服従の可能性:

         国家神道による宗教的祭司王としての性格の問題

3)キリスト王権の下での教会と国家の関係の原則について

  天皇家の祭祀と大嘗祭などの国家神道儀礼の問題

5.「天皇の回心」と言うことばの含んでいる矛盾

6.政教一致の誘惑と危険

7.日本宣教における天皇制の利用の問題

1)「国家神道は宗教ではない」という欺瞞

2)ヨハネス・ボスの旧満州で体験した日本の三つの危険な兆候の継続

(1)国民儀礼

(2)教育統制

(3)宗教統制

3)宣教における、国家社会のキリスト王権の下での「悔改め」の必須

8.天皇制を越え、信仰の良心と聖書の愛によって

        王キリストに仕え、勝利の幻へ

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婦人会での証し

今日はこの集まりに招いてくださってありがとうございます。私の名前は瀧浦アミリアといいます。私はアメリカのカンザス州から来ました。日本人の夫と結婚して日本に来てから4年になります。私の夫は牧師をしています。私たちには二人の子供、冠太と賛七がいます。

私はアメリカ人であり、妻であり、母でありますが、私にとってそれらのどれよりも大事なことがあります。それは私がクリスチャンであるということです。今日は神様がどのように私を愛してくださって、クリスチャンにしてくださったかをお分かちしたいと思います。

まず神様が私になさったことは、私をクリスチャンの両親のもとに生まれさせたことでした。このことは、クリスチャンになるために一番重要なことではありませんが、神様の私への深い恵みでありました。私の両親は私に聖書を読み、神様について教えてくれました。また、私の両親は教会の礼拝に忠実に私を連れて行き、神様を礼拝する事の大事さを小さいときから教えてくれました。

教会の人々も良い影響を与えてくれました。小学生のときにエリザベスという女の子と友達になり、彼女の影響で自分で聖書を読み始めました。教会のこどもキャンプも私の信仰が成長することの助けとなりました。これらのことは私が後にイエス・キリストと罪の赦しを知るための基礎となりました。

神様は子ども時代の私に良いものをたくさんお与えになりましたが、様々な葛藤もありました。私はホームスクールで育ったので、友達があまりいませんでした。兄弟は妹一人だけでした。そして、教会でも、エリザベスが12歳のときに引っ越していってしまい、一時期、私と同年代の子がひとりも教会にいないということもありました。当時はあまり意識しませんでしたが、今思うと、孤立感から来る寂しさが私を捕らえ、支配していました。


寂しさはしばしば罪への誘惑となりますが、そのような寂しさの中で、私は中学生のときに隠れた罪と葛藤するようになりました。私は強い罪悪感を感じましたが、誘惑はそれ以上に強く、その罪をやめることはできませんでした。私は自分が決心することで何とかなると初めは思いました。神様に受け入れられる前に自分が変わらなくてはならないと思いました。しかし、いつも私は誘惑に負けました。今思うと、そのようなときでも神様は私の心に働いておられて、自分で自分を変えることに私がどれだけ無力かを私に教えようとされていたのだと思います。


神様が私を愛してくださることの本当の意味を初めて知ったのは、そのような葛藤の中においてでした。中学生のとき、教会で同年代の友達がいなかったのですが、むしろそのおかげで説教や教会のクラスでさらに集中して真剣に聞くことができました。神様は寂しさをも用いて、私が神様のことを探求するようにされました。そのとき、私の教会に臨時の牧師先生が来られていて、新約聖書のヘブル書から説教されていました。ヘブル書はイエス様が何をなさったかが詳しく書かれている書簡です。そのころに、重要な疑問が私の心の中に浮かんできました。「なぜみんなはイエス・キリストのことをそんなに話しているんだろう。イエス様の何がそんなに大事なんだろう。」私はそれまでずーっとイエス様のことを教えられてきていたにもかかわらず、私はその浮かんできた疑問に対して答えを見つけられませんでした。私は聖書を開いてその答えを探し始めました。どのようなときか、またどの聖書の箇所を見つけたかは忘れてしまったのですが、ある時、私が聖書を読んでいるときに、突然分かったのです。誰かが私の全ての罪のために罰を受けなければならないということを。そして、イエス様が私を愛するあまりにご自身の命を私の罪のために捨てられたということを。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。(第二コリント5:21)」私が受けなければならない罰を、イエス様が受けてくださいました。「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにあるものが罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)」どのような罰も私には残っていないのです。私が一生懸命努力したからではなく、イエス様がすでに私に代わって罰を受けてくださったから、神様は私の全ての罪を赦してくださいました。私が何かをすることによってではなく、イエス様がわたしのした全ての罪のために罰を受けてくださったことによって、神様は私を受け入れてくださっていることを知って、私は驚きました。そして、私は喜びと解放感に満たされました。


それでも悲しいことに私の罪との葛藤はすぐには終わりませんでしたが、イエス様が私のためにしてくださったことを知ってから、私はイエス様にある神様の愛を少しずつ学び始めました。高校生の時期の後半に、地元の短期大学で授業を受けていたのですが、そこで私は何人かの良い友達が与えられ、その友達たちと一緒にたくさんの時間を過ごしました。たくさんのクリスチャンの友達を持つことはすばらしいことでした。ある学期にはその友達たちと時間が合わず、また寂しくなったことがありましたが、そのときはいつでも一緒にいて話を聞いてくださる方、イエス様がいました。昼食のときに、詩篇を読み、神様に自分の考えていることを祈りの中で話すことは私にとって大きな喜びでした。この時期は、神様がいつも私と共にいてくださり、わたしを愛してくださるということを知った、私にとって人生の中でとても特別な時でした。


それから私はペンシルバニア州のジェネバ大学に行きました。私はそこでたくさんの友達が与えられて、とてもすばらしい経験をしました。しかし、それでも寂しいときがありました。つらいことのあった日はよく、キャンパスの中を歩き回ってイエス様と話しました。そしていつも、イエス様とのそのような交わりから本当の平安と活気を受けました。いつもイエス様が私の必要を全て満たしてくれました。私が必要としていたのはイエス様だけでした。そして、私は部屋に戻って、平安のうちに眠ることができました。神様の恵みにより、大学での最後の年に、私は長く葛藤していた隠れた罪からついに解放されました。私は本当にそのことを感謝しています。私は、私の寂しい心の必要を満たそうとしては、いつも罪が私を打ち負かして私の心を暗くしていました。しかし、イエス様は私の必要を全て満たしてくださいました。イエス様は私の全ての渇きを満たしてくださる、生ける水です。


皆さんの渇きを満たすためにいろんなことを用いることができます。たとえば食べることや、買うこと、友達や、あるいは子供や夫まで、そのために使うことができるでしょう。しかしそれらのものはいつまでも続きません。食べ物はなくなるし、物も壊れたり古びたりします。また人についても、あなたが求める全てをとても満たすことなどできません。また、それらのことを自分のために用いること自体正しいことではなくて、様々な自己中心の問題を生みます。しかし、イエス様を持ち、イエス様の愛に満たされることが、皆さんに本当の満足を与えることができます。皆さんがイエス様を見つめるとき、皆さんは本当の喜びが与えられ、与えられたすばらしいものを楽しむことができます。何もなくても、私は私の必要なもの全てをイエス様に持っています。皆さんは自分自身で自分の必要を絶えず満たそうとして、いつも失敗しているというふうに感じることはありませんでしょうか。イエス様を仰いでください。そして共に満たされましょう。

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