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2015年新年礼拝 説教「聖書には希望がある」

2015年 新年礼拝説教

旧約聖書・哀歌 3:19−33

聖書には希望がある」 

序 聖書は神さまのことばである。

旧約聖書にあるこの哀歌は、紀元前586年のユダ王国・イスラエル民族滅亡とエルサレム陥落の中で歌われた歌で、その渦中にいた預言者エレミヤの作であると思われる。この書のギリシャ語への翻訳は紀元前100年頃から存在したし、イエス・キリストもその写本の朗読をシナゴグで聞いて育たれた。この書は、毎年、ユダヤ民族の王国滅亡記念日に読まれる習慣があった。

しかし、この書のテーマは「希望」である。

この書のヘブル語聖書原典での表題は「ああ」である。ヘブル語聖書の各書の表題は、普通その書の最初の言葉から取られていて、哀歌の場合、嘆きの「ああ」から書が始まっているのでそれが題になった。そのことで象徴されるように、この哀歌の五つの章は亡びの悲しみと嘆きが満ちている。「希望」どころでなく、むしろ一見してテーマは「絶望」であるように見える。

この書はヘブル語のアルファベットをそれぞれの節の冒頭の文字に順番に並べた技巧詩で、その証拠に各章が(3章以外)ヘブル語アルファベットの文字の数の22の節で出来ている。そのアルファベットの順番の文字で始まる各節で、すべて亡び・悲しみ・嘆き・絶望・後悔を様々な角度から歌っている。

ところが、真ん中の3章だけは三倍の66節有り、アルファベットの同じ文字が三回繰り返されて三節づつ節を導いている。そして、今日のテキスト19−33節はアルファベット22文字の中の7番目のザインの三節の部分から11番目のカフの三節の部分までの五つの部分であり、この部分を中心に「希望」が語られている。神はエレミヤに亡びと嘆きと絶望を語らせられるそのど真ん中の3章のそのまた真ん中の部分で、深い絶望の嘆きにつつまれて、深い希望のことばをお語りになっている。

神はこの書を書かせられて、亡びの中で希望をお語りになった。

神のことばであるからこそ、亡びの淵に立つ魂に、希望を告げることが出来る。

新しい年の初めに、神さまの希望の言葉を聞こう。

1.聖書には現実がある  3:19−21 アルファベット7番目「ザイン」の部分

1)希望が芽生えるの苗床は、いつも厳しい現実の中である。

  希望のない中でこそ本当の望みが希望としてあらわれる。

  哀歌のみ言葉は、遠慮なく厳しい現実を突きつける。

「私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。」

 人生の思い出は、つらく苦しい悩み・あてどないさすらい・そして苦い思いだけ。

  それしかない所に、神さまは本当の希望を約束される。

2)希望は、私の魂の状態が、過去のつらい思い出から脱出できない時、あらわれる。

「私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。」

 私の魂が、過去に縛られ、思い出しては落ち込み沈んで行く中に、やってくる。

3)苦悩と嘆きと絶望は、しかし、ここでは、聖書では、そのままでは終らない。

「私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。」

 聖書にはあなたの魂の現実が触れられている。語られている。語りかけられている。

  聖書は私たちの苦しむ魂を置き去りにしない。裏切らない。

  聖書には現実がある。しかしそれは、聖書では、そのままには終らない。

  「待ち望む」思いに導かれる。

2.聖書には希望がある  3:22−24 アルファベット8番目「ヘス」の部分

1)主のあわれみの希望がある

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

 何よりもあなたが、あんな試練にあっても、滅び失せなかった事実がある。

  それは、主の恵みが確かにあなたにあるからだ。

  主のつきないあわれみがあなたに向かってある。

2)朝ごとにその希望がある

「それは朝ごとに新しい。」

 一日の働きで夜は疲れ果てても、朝ごとに新しい出発がある。

  新しい主の恵みが、朝ごとに与えられる。

  この一年も、朝ごとに新しく主の恵みを受けて歩んで行く。

3)変わらない主の真実に希望がある

「『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です』と私のたましいは言う。

 それゆえ、私は主を待ち望む。」

 主の真実は力強い。

  主がおられれば、そこに栄光と祝福が必ずあり、必ず大丈夫である。

  クリスチャンの心はそれを知っている。

  聖書には希望がある。主のあわれみと主ご自身の真実が、この新年も朝ごとに新しく、

  私たちを「待ち望む」思いに導く。

3.聖書には主がおられる 3:25−33  

         アルファベット9・10・11番目「テス・ヨッド・コフ」の部分

1)慈しみ深い主がおられる

  聖書の希望は、主ご自身がおられるからである。主ご自身から来る。

「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。」

 その主は慈しみ深い。弱いもの貧しい魂が、主を求め、主を待ち望むとき。

  だから私たちは、今年も主を待ち望んで歩む。

2)だから主を待つのは良い

「主の救いを黙って待つのは良い。」

 救いを「黙って」待て。それは希望を本当に信じる行為だ。

「人が、若い時に、くびきを負うのは良い。」

 若い時、「くびきを負わされて」待て。

  それは,主の元に来るための道である。主を信頼して従う訓練である。

「それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。」

 「一人..座って」待て。

  焦って動き回るな。人に頼り回るな。まず主の前に信じて座れ。

「口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。」

 「口をちりにつけて」へりくだって、待て。

  低くなりへりくだることは可能性である。しかし、主を信じてでないと空しい。

「自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。」

 十分「頬を打たれ」恥を受け、「十分そしりを受けて」待て。

3)必ず愛してくださる主がおられる。

  あなたは、聖書でその主に出会う。

  ただ聖書を開け。説教を聞け。

  聖書には主がおられる。この哀歌におられるように。

「主は、いつまでも見放してはおられない。」

 その主は、あなたを決して見放されない。見放しているようでも違う。

「たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。」

 その主は、あなたが悩みを受けるとき、理解し、豊かな恵みの中に置いてくださる。

「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」

 その主は、あなたを決していじめられない。ただ苦しめて悩ませて捨てられない。

哀歌のように、亡びの悲しみ、絶望の嘆きのただ中で、神さまはあなたに語られる。

聖書の神のことばを通して。

聖書には現実がある。聖書には希望がある。聖書には主がおられる。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

 それは朝ごとに新しい。」

新しい年の新しい朝に、私たちには、嘆きの中でも、聖書を開くとき、「希望」が待っている。

今年、教会で毎日曜日の朝、いっしょに聖書を開こう。

また、家族で、また一人で毎日、聖書を開く年としよう。

そこに、聖書の中にはいつも、主の「希望」が待っているから。

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